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楽しむ学ぶ「歴史」
雛祭り起原考
雛祭り起原考目次

はじめに

一、
天児と這子
「 まじないの対象物」


二、
ひいな「幼児の遊戯の
対象物」


三、
三月上巳の日と
「ひとがた」流し-
「呪術の対象」


四、
加太守雛
(かたもりびな)
「信仰の対象物」


五、
雛祭起原考
「雛人形」の発祥と
その推移


六、
「雛祭」の起原と
その変遷


結び
参考文献

 
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雛祭り起原考・要旨
 



ひな祭り文化普及協會 構 成  弥栄女
資料提供 菅原二郎

三、三月上巳の日と「ひとがた」流し。    
「呪術の対象」 その二


 平安時代の前、奈良時代の風俗は唐風一辺倒だった。勿論、官制、文化全般もそうである。平安時代に入って和漢折衷へと変化していくが、菅原道真が遣唐使を廃止してから、わが国独自のものへと変化するのが速まったように思われる。更に時代が下り、鎌倉時代以降、武家が天下を握り、武家独特の制度、行事などを創設した。そして時代と共に武家のそれが宮廷に取り入れられ、由来のものが少しずつ変革されて行った歴史もある。その時代の流れの中で、「上巳の日の祓」の行事は霞んでいったのではないか。従って記録もなく、有職故実で取り上げられなかったのではないか。

証左とするものを持たないので、憶測かも知れないが。時代によって書き換えられた有職故実を追跡調査すれば判然とするかも知れないが、それは専門家の仕事であり又、ここでは必要もないことと思う。「上巳の日の祓」に関して、後の文献を騒がしたものはないように思えるし、江馬氏がとりあげていないからだ。ここらあたり少しあやふやなのは仕方がない。
 そこで「雛祭新考」を見てみよう。
 著者の有坂與太郎氏は恐ろしく博学で、引用文献もまた夥(おびただ)しい。然し、「禊祓を根底として*1胚胎(はいたい)せる雛祭の*2濫觴(らんしょう)の項に、

―ここに云う祭りの根本理念も、又禊祓による民族の伝統的情操と深遠な信仰力とが根底になっていて、其処には日本人のみが持つ、美しい清い感情が流れている―

とあるのは未だしも、
―日本の国体と文化と、国民の精神と生活とを形成し進展せしめつつある日本国民の根本観念は、清浄と崇祖とを基調とした敬神観念によって根深い特性が見出される―

と続くのを読めば現代人は、そこでつまずきこの一巻投げ出すかも知れない。だが、これは、戦時中という時代を考えればとがめられるべきものではない。内容そのものは、「雛祭り」起原に就いて多彩な文献引用と見解を述べ、当時の国民精神高揚とか、*3国粋主義の鼓吹(こすい)を目的としたものではない。雛祭史解明に多くの示唆も含む立派な仕事と拝見した。然し、根本的なところで、違う、違うという違和感がありその見解の多くに納得できないものがあり受け入れがたい。それでも尚この書を取り上げるかといえば、同書の取り上げた多量の文献とその見解を参考に、雛祭り起原に就いて不明なところをいくらかでも補う教示が欲しいからである。
   
 ―上巳とは三月上の巳の日を指しているが三月は辰の月に該当するので巳を除日と定め不祥を駆除するために祓を行うことを云う。―

 ―上巳は祓の思想が漸次衰えて節日化しその呼称が雅遊視されるようになった。―

 とあるのだが、上巳の日を祝日とするのは*4顕宗天皇元年三月上巳に曲水の宴とあるのが史籍にみえる初めとし、その推移変遷には触れないが武家の勃興から宮中の雅宴は次第に廃れたとある。
 ここで一寸した混乱を感じる。引用した所説では、不祥の日として祓をした上巳の日が早くから、祓が廃れ祝日になったように受け取れるが、これはどうもおかしい。
 「曲水の宴」とは流水に盃を流す遊びのことである。奈良時代は天皇が川辺に行かれて、文人を召され詩を作らされた。平安朝では宮中*5清涼殿御溝水に盃を浮かべられた、と「有職故実」にある。だが、*6寛冶五年三月十六日関白藤原師実(ふじわらのもろざね)は六条水閣で之を催したと「中有記」の記述も載せている。そして続く記述に巳の日の祓を述べ、光源氏の須磨の浦での祓と人形(ひとがた)流しを記述している。

 どうやら、唐から輸入した故実は一方で曲水の宴という遊びとなり、三月三日上巳の日の時日も変わり不祥の祓とは別個な催しとなり、それとは別に上巳の日に祓を行った。従って、この祓と曲水の宴の催しは時日を違えて継続の歴史があった、としか読めない。

 「雛祭新考」の上巳の日の説明はまことに分り難い。上巳が節句化しその呼称が雅遊視されるようになったとあるのだが、それは曲水の宴を指しているのだろうと思えるのだが、上巳の祓が廃れ、同じ上巳の日が祝日へと変わる経緯の説明にはなっていない。然し後世上巳の日三月三日が祝日になったのは事実だから、その経緯が判然としないまま、上巳の日の本来の意味である祓にまつわる行事を、後世雛祭りの起原と称するのは飛躍しすぎた論というべきと思えて仕方がない。

 闘鶏、母子草、よもぎ 
                  
「有職故実」といい、「雛祭新考」といい、共に雛祭り起原を上巳の日の祓に起原を見る思考は一致しており、この考え方は現代流布されている所説の基本となっているようだが、よく検討してみれば、どうも単純な混同があるようで、これはかなり怪しいものだ。 
尚「有職故実」では、三月三日には室町時代から*7闘鶏(とりあわせ)が行われるようになった。又武家でも行われたと、上巳の日の説明のあと、何の脈絡もなく記述している。「雛祭新考」では祓の儀は廃れて云ったとは先にふれているが、これもいきなり闘鶏へとんでいるが、こちらの方は闘鶏の行われた後に、華やかな舞の舞台が催されたとやや詳しい説明と、それに就いての見解が述べられているが、双方共に、長い時日の空白を埋める、上巳の日の説明はない。つまり、上巳三月三日の祓は全く断絶しているのだ。
「有職故実」は闘鶏同様、何の説明もなく、三月三日の*8草餅に触れている。この草餅は、室町幕府では*9蓬餅になったと記され、説明はないが、後に雛祭の雛段の色違いを重ねた*10菱餅が飾られ、その菱餅の一つが蓬餅といわれるのを以って雛祭起原を上巳の日にみるのに援用のつもりかもしれない。
以上、雛祭り起原と上巳の日の関係を見てきたが、不祥の日として祓の行われた上巳の日三月三日が、何故かまったく正反対の祝い日として残った由縁は判然とはしないが、上巳の日の呼称が何時まで残ったか、もう少し追及してみたい。

 
雛祭り起原考つづきを読む

【注釈】
*1 胚胎(はいたい) -上物事の起こる原因やきざしが生じること。
*2 濫觴(らんしょう)-大河もその源は觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの小さな流れであるという「孔子家語」の言葉から、物事の始まり。起源。
*3 国粋主義の鼓吹-国家に固有の文化・伝統を礼賛することで国家意識の発揚をはかる思潮や運動(国粋主義)をさかんにするの意味。
*4 顕宗天皇(けんぞうてんのう)-元記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代の天皇で在位:顕宗天皇元年(485年)-同3年(487年)
*5 清涼殿-平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の西、後涼殿の東。
*6 寛冶五年-1087年
*7 闘鶏(とりあわせ)-鶏と鶏が戦う競技のこと。*図1闘鶏
*8 草餅-古くは*図2ハハコグサ(母子草)を入れて作った餅をさす。
*9 蓬餅-蓬の葉を入れた餅図3
*10 菱餅-菱型の餅で雛段に添えられた。初期は青と白の2色だった。

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