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楽しむ学ぶ「歴史」
雛祭り起原考
雛祭り起原考目次

はじめに

一、
天児と這子
「 まじないの対象物」


二、
ひいな「幼児の遊戯の
対象物」


三、
三月上巳の日と
「ひとがた」流し-
「呪術の対象」


四、
加太守雛
(かたもりびな)
「信仰の対象物」


五、
雛祭起原考
「雛人形」の発祥と
その推移


六、
「雛祭」の起原と
その変遷


結び
参考文献

 
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雛祭り起原考・要旨
 


ひな祭り文化普及協會 構 成  弥栄女
資料提供 菅原二郎

三、三月上巳の日と「ひとがた」流し。    
「呪術の対象」 その三


桃の花三月三日が桃の節句と呼ばれ祝い日とされていたのは、分かっているが、三月三日上巳の日は*図1桃の節句とは呼ばれない。勿論、上巳の日という名称も一般の人には無縁だと思う。ではその上巳の日の名称そのものが廃れたのかといえばそうではなく、この名はずっと生き続けていた。

「国民の祝日」の由来がわかる小事典 所 功(ところいさお)著 PHP新書 二00三年八月二十五日第一版第一刷。
この中から必要な部分を抜粋してみよう。

―大宝元年(七00年、奈良時代)に制定された「*1神祇令(しんぎりょう)」に季春(三月)に『鎮花(はなしずめ)祭』、その附則である「雑令(ぞうりょう)」に、『三月三日を節日とする』―とあり意外な事実に驚く。だが同書では、それが後に何故不祥の日になったか触れていない。それが闘鶏の日となったことは述べられていてもその由縁などにふれるものはない。 
更に時代が下り、江戸時代になると、徳川幕府は古来の五節句を幕府の年中行事として祝いの式日として定めた。三月三日はその内の一つである。
 更に更に時代が下り、明治維新、新政府は明治三年太政官布告によって、祝日を定めた。その内の一つに「三月三日上巳の節句」―とある。ここまで、三月三日上巳の呼び名は生き永らえていたのである。

 然し、それから三年後、―政府は明治六年元日、旧来の暦を*2新しい暦に変えました。続く一月、太政官布告によって、それまでの祝日を廃止した。その中の一つが三月上巳の日である―

ここで、不祥の日が祝い日と内容は変わっても、わが国の伝統行事の日として続いて
きた「三月三日上巳の日」は漸く終焉を迎えることとなった。

 ところで三月三日は又「桃の節句」と呼ばれ、一般にはこの呼び方が馴染まれているがそれは、何時ごろからどうしてそう呼ばれるようになったのか、所氏の小事典にかかれているものを引用してみる。

  ―三月三日は旧暦季春のはじめ、まさに桃の花も満開の頃であるが、花粉などが飛び散って病気にかかりやすい。その為か、中国でも日本でも、水辺に出て汚れを祓い流す風習があった。とくにわが国では知らず識らずの間につく心身の罪穢れを除くため、人の形をした人形(ひとがた)をつくってそれに自分の息をふきかけて汚れを写してから水に流した― 以下省略。

 これでは、何故桃の節句と呼ばれたのかよく分らず、唐の故事から上巳の日が取り入れられた頃には既に「桃の節句」の呼び名があったようにも受け取れる。(大宝令に花鎮祭の規定はあるが、その花が桃の木限定の意はないようである)然し、その典拠は見当たらない。又、花粉が飛び散って云々は現代の杉の花粉の騒動を連想させ、どうも現代感覚の付会の説のように読めて仕方がない。
 桃の木が邪気を払うものとする風習はわが国上古からあったようだ。日本書紀の神代の記述にイザナギの尊(みこと)が、亡き妻イザナミの尊のいる*3黄泉(よみ)の国を訪れ逃げて帰る時危難にあうが、その情景を同章の「第九の一書」では、イザナギを追って来たのは、八色雷公(やくさのいかずちこう)である。イザナギは大きな桃の木に隠れその実をとって雷に投げつけたら、雷共は走り逃げた。これより、桃の木は雷を避けるものといわれるようになった。雷は即ち、人間に災いをなすもの、桃の木は災いを払うものとされるようになった。とある。

 この鬼を避けるために桃をもちいるのは、後の延喜式中務省式(当時の法令)にも見え、中国の書には*4の国の歳時記に桃の木は鬼や疫病から身を守る術に使うとある。桃の木が邪気を払う力があると、古くから信じられていたものであろう。

菖蒲の花その素地の上に立って、雛祭りが始められると、これに「桃の節句」を重ねるのはごく自然だったろうと思われる。「端午の節句」の*図2と対比すればよく分るのではなかろうか。菖蒲も魔を払うものとされている。菖蒲は五月、桃は三月の植物である。五月五日、三月三日、それぞれに季節の香りを供え、どちらも災いを退ける力を持っているものと信じられていた。又、菖蒲の香りはかなり強い刺激を持ったものである。それと比べれば、桃の香りは甘く優しい。端午の節句は男のもの、桃の節句は女の子のものとされるのは、そうした感覚的な由縁も又ごく自然なように思われる。

 と、このように解釈してみたが、それが何時の時代から「桃の節句」の呼び名が始まったのかは不分明のままである。

 三月三日の節句の日が、俗に[桃の節句]の呼び名で一般的に馴染まれるようになったのは多分、雛人形を飾るようになって、三月三日は季節が丁度桃の花の咲く頃、その姿や匂いが雛飾りの傍におくのにふさわしいと思われたのであろう。そしてそれが一般に定着して三月三日を「桃の節句」と呼ぶようになった、とする俗な解釈も目にしたことはあるが広く一般の人に「桃の節句」の名が浸透した理由はそれなりにいいのかも知れないと思う。

―節句はもと節の日に供えるものの意で、「節供」と書く。季節により特に定められた祝いの日を「節句」と呼ぶ。正月が七草粥、三月三日に草餅、五月五日に粽(ちまき)というように決まっています―岩波版古語辞典より

以上三月三日上巳の日と関連する事象を述べてきたが、結局、上巳の日の名称は永く残ったが、当初不祥の日とされて祓が行われたことと、「ひとがた」に穢れを移し、川や海に流した行事が何時頃から廃れたのか不分明のままに終ってしまった。
 
 以上で「上巳の日」の考察を終わります。

 
雛祭り起原考つづきを読む

【注釈】
*1 神祇令 -神にまつわる儀式を法制化したもの。
*2 新しい暦-新暦のこと。改暦後の暦法のことである。改暦前の暦は旧暦という。太陰太陽暦から改暦した太陽暦(グレゴリオ暦)のことをさす。
*3 黄泉(よみ)の国-もともと「地下の泉」の意味であり、地下にある死者が行くとされる場所のこと
*4 楚(そ)--(? - 紀元前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。

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