三、三月上巳の日と「ひとがた」流し。
「呪術の対象」 雛流しについて
次に「雛流し」について。*図1流し雛
先の三月上巳の日の解明で、「ひとがた」を海に流した故事と後世の「雛流し」の風習とに直接的接点は見出せないことは言を待つこともないと思う。接点があるとすれば、三月三日という暦日が同じということのみのようである。さらに言うならば、川や海の水は清浄なものであり、すべてはこの水によって清められるという、古来、日本人の信仰的心情が両者に共通とでも言おうか、それくらいのものであろう。
「上巳の日」を不祥の日として、祓いを行い、「ひとがた」に身の穢れを移し海に流した宮廷行事が後世の「雛流し」の起原であるとするのはやはり無理であろうと思う。後世の「雛流し」に就いては、次項で考察してみたいと思うが、ここでは、前出の『有職故実』の著者江馬務氏の著作になる「江戸時代の風俗史」の中の「歳時の章」で「雛流し」関連部分を引用しておく。
―雛はその他地方に各種のものがあった。階級は多く公卿であるが町人雛もあり、年齢も中年のものが多いが、稚児や百歳雛というものもあり、男女一対でなく男子のみのものもあり、木、陶、裂、糸、草、紙等の製作品もあって木では奈良雛、板雛、陶器では吉野雛、浅草一文雛、裂では琉球雛、糸では薩摩の糸雛、紙では伊勢菜の花雛、草では三河万個雛などがあり、水に流した祓の人形(ひとがた)から変化した経路は地方の雛によりて徹しえられる。―
これは、江戸時代の雛祭り、雛人形の時代変遷を述べた後に書かれている文だ。これ以外に説明が全くないので理解に苦しむところ多いが、これは地方における「雛流し」に用いられた「雛」の実例をあげたものではないかと思われ、これだけでは「ひとがた」を海に流した古代、祓の風習が後世の「雛流し」の風習になった直接的な証左―水に流した祓の人形から変化した経路は地方の雛により徹し―とはならない。
つまりその風習は何時頃、何処から伝えられ、どのような約束事と形や行為で雛が流されたか。それらの解明なしでは、何となく似ているからというだけでは無理にこじつけた説といわれても仕方がないと思う。江馬氏はその著『有職故実』の中で、三月上巳の日の祓いの後、[ひとがた]を海に流した故事が「雛流し」の起原であることの提唱者である。
古代、上巳の日の「ひとがた流し」は呪術の祓であり、先に引用した光源氏のように、陰陽師が介在してとり行った儀式のようなもので行われる。それに比べ後世の流し雛は、陰陽師のような介在者を必要とした例を聞かない。また、地方の地域社会の行事として行う以外にも、個人が任意の日に任意の水辺で雛を流してこれを見送ったという風習も、文学作品などに散見できるようだ。これらは、雛人形を粗末な扱いにならないよう、叙情的な感傷をこめた人形の処分法とでもいうべきことであろうと思う。 この雛流しに就いては次項でもう少し触れよう。