一、天児(あまがつ)と這子(ほうこ)。
「まじないの対象物」
雛祭り起原について流説の中に大抵この*図1天児と這子が登場している。まずこれの検証から始めてみよう。
―古代、疫病を祓う為に路傍に*1草ひとがたを立てる風習が生じていたが、やがてそれが身代わりに災厄を引き受ける「ひとがた」をつくってわが身を清めるものとへ転化した。それはわが身に着けるもの、家屋内に安置するものとして小型のものとなった。これを撫で物と呼び、天児と這子が知られている。これらは「ひとがた」、「形代」(かたしろ)、「人の形」と総称され、祓の人形(にんぎょう)とされた。―平凡社刊 百科事典 より
そこでこれは、呪術的、信仰的なものと理解したが実はそうではないらしい。
―この人形は「比々奈(ひひな)」もしくは「阿末加津(あまかつ)」といわれ、「比々奈」という方は大体男女、年齢、服装などをも表現している人形であるらしく、「阿末加津」は極めて概略なものであったようで、祓の場合にも何れでもその効果に甲乙の区別はなかったものであろう。 中略 ともかくこの天児、這子は*2中世に於ける祓の人形として行われて、後世におよんだものであった― 日本歳時全史 江馬務著作集 より
とあるが、この「人形」とあるのは、勿論後世の「人形(にんぎょう)」と同じ呼称ではない。「草ひとがた」は*3神功(じんぐう)皇后が、等身大の草人形を作って人の身代わりとしたことに由来する。これを小さくした立ち姿を象形化して単純、素朴な形の天児、這子となってからは、これを幼児の災厄をはらう形代として身にそえて用いる風習が生じた。これは宮廷貴族のものだったようだ。
然しこの人形は、期日を定め祓いの儀式に用いるものではなかった。多分、祭神の前で祓いを受け、その後は子供の肌身に着けるとか、家内のどこかに安置するとか、要するに現代でも広く行われている「お守り」のような扱われ方であるらしい。呪術の祓のような窮屈な儀式のものとは違い、意識、観念の上では親しみ易く手軽な存在であったようだ。いうなれば原始的な、こうすれば災いがやって来ないというような素朴なまじないのようなものだったかも知れない。後世の、縁起がいいという表現に似たもののようだ。
この風習は連綿(れんめん⇒絶えることなく)として受け継がれ、雛人形が出現し、雛祭りが始められると、貴族たちは、雛飾りの傍にこの天児、這子を添えて飾った。現代昭和の時代に貴族の一人が、天児、這子を雛祭りの雛壇に飾った記録もあり、現物も存在している。 ―参照 平凡社百科事典―
にも拘わらず、この天児、這子はさまざまな解釈にさらされるような数奇な歴史を残しているらしい。第一、名称からして、何時の頃か不明だが、天児が、「比々奈」と「阿末加津」の二つ名を持つようになり、「阿末加津」は人の形の概略、「比々奈」は男女、年齢、服装なども表現した人形であった。「這子」は「祓い子」から来ている。 ―江馬務著作集 中央公論社―
この著作集の中で、紹介されている 「みやのめ祭考」 明治十二年十月考古界誌 桜井 秀博士著(桜井氏は当時風俗史の第一人者と呼ばれた権威である。)によれば、
―近世の雛祭はその一部の起原を'みやのめ祭り'に発したもので、祓の人形の影響ありとの説は採るにたらぬ―
とあって、この'みやのめ祭り'は正月上午日をはじめ十二月にも行われたこと、祭神の前に供物を供え、家族の人数の比々奈を添え祭文を朗読して家族の幸福を祈った。「*4寛永六年西洞院時慶卿記(さいとういんじけいきょうき)」より―とある。
どうもよく飲み込めないが、「比々奈」とあるので、「天児」の歴史的変遷の一ページではあろうが、その時代以前の変遷はよく分らない。
時代が下って雛祭りが行われるようになると、雛人形に添えて、「天児」「這子」がそっと添えられたという記述は散見する。*図2雛人形と「天児」「這子」
然しながら、ここで注意しなければならないことは、同じ雛壇に並べてある「天児」「這子」はまじないの対象物としての「お守り」であり、「雛人形」は愛玩物としての飾りものであることだ。雛人形は後に、女児の先行きの幸せを願う対象とされるようになったが、それは信仰的なものではない。雛人形に就いては項を改めて述べることにする。ここでは天児と這子が雛人形の出現に何らかの役割を担ったとは思えないとのみ述べるに止める