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楽しむ学ぶ「歴史」
雛祭り起原考
雛祭り起原考目次

はじめに

一、
天児と這子
「 まじないの対象物」


二、
ひいな「幼児の遊戯の
対象物」


三、
三月上巳の日と
「ひとがた」流し-
「呪術の対象」


四、
加太守雛
(かたもりびな)
「信仰の対象物」


五、
雛祭起原考
「雛人形」の発祥と
その推移


六、
「雛祭」の起原と
その変遷


結び
参考文献

 
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雛祭り起原考・要旨
 



ひな祭り文化普及協會 構 成  弥栄女
資料提供 菅原二郎

二、ひいな。    
 「幼児の遊戯の対象物」


ひいなあそび平安時代の*1源氏物語、他の文学書に散見する「ひいなあそび」の源の大対象物が「雛人形(雛人形)」の起源とする見解は、次に触れる上巳の日と共に、雛祭の起元のような記述が多い。いや、多いというより、殆どの起源と称するはここから始まっているようだ。
ことに源氏物語の記述に*2紫の君の「ひいなあそび」のあるのを引用し、「ひいなあそび」が宮廷の成人男子の間でも盛んに行われた風習かのように述べたものがあるのは解せない。女児と同じく幼少の男児は女児と共にあそんでいるのだが。

同じ源氏物語の記述に、(紫の君が「ひいなあそび」をしているのを見掛けた女官が呆れて、紫の君はもう「ひいなあそび」をする年齢ではないのに未だやっていらっしゃると言った)とある。宮廷では「*3とおにあまる」年齢をもって、女児は成人並みの扱いを受けるようになり、それ以降は幼女の遊びに手を出すものではないとされていたようだ。

 

即ち、「ひいなあそび」は大人の宮廷人の遊びではなかった。又、この「ひいなあそび」の対象は、人の姿をかたどったとはいえ、リアルに模したものではない。素材は紙、藁などであったらしく、手足を広げた形が人の形に似ているだけの単純素朴なものだったともいわれているらしい。

もっともこれは、はっきりとそれを裏付ける確証があるのではなさそうだ。しかし、当時「紙」は貴重品であり、幼児の遊び道具に無暗と使い得るものではなかった。人の形だけではなく、御殿だとか、調度なども作ったようだが、それは絵で表し、紙のみではなく、藁(わら)しべなども材料とした、あくまで象徴的な素朴なものであったという説明は納得できるものである。

*図1ひいなあそび<慶安本『源氏物語』所載>

ところで「ひいな遊び」に関して多くの物語草紙類の記述が引用されるが、その他では、よく引用して説明の資とされるものに、江戸時代の「慶安本源氏物語」がある。これは源氏物語を要約し、主な場面を絵で表現したものだ。その中の一場面に「ひいなあそび」がある。広い座敷で三人の女性(多分幼女のつもりだろうがかなり大人びた感じに見える)が坐り、彼女達の間には小さな御殿を模したもの、御簾(みす)のまえには屋根のある建物、その下に立ち雛が二三体見える。襖が二枚開け放たれ、その外に立って部屋を見ている烏帽子姿の男性は多分光源氏であろう。
『雛祭新考』ではこの絵を転写所収している。勿論それ以外の、物語草紙類からの引用を多様に用いて説明がなされているのは言うまでもない。そして、

―かくのごとく児童の遊戯の中にその日常の起居状態が縮写されていた―
と、それまでの物語草紙類からの引用に、この絵を援用する形で、
―これが雛祭の目標とする雛人形の原始的形態をなしている―

として雛祭の雛人形は「ひいなあそび」の「ひいな」が進化したものとみていい、と自説を提起している。

この「慶安本源氏物語」には後で触れるとして、『雛祭新考』の所説をもう少しとりあげてみたい。

 ―物語草紙類に描かれたひいなあそびに対する大人の観念は、平安期の児童生活とそ
れによって生ずる遊戯の本質について、幾多の好資料を提供してくれる。即ち
一、 ひいなあそびは幼児の遊戯に限定されていた。
二、 ひいなあそびは女性の生活に浸透していた。
三、 しかしながら、ひいなあそびの対象者は女児ばかりではなく、男児もこの遊戯に参加したこと。
四、 ひいなあそびは女性の心理を解明し、*峻厳(しゅんげん)に親と子の愛のつながりを追及しつつ、純愛の本質を明らかにしていること―

として、又源氏物語を引き合いにした説明がなされている。
何やら、道徳の教科書の趣きがないでもない。この内の三、に就いては既に述べた。
一、に就いても異論はないが、二、に就いては、大人の女性が懐古的に述べたり、可愛いものの比喩に「ひなのような」と表現したりとか、思い出にするのは逆に自分の幼かった頃からすれば段々と薄れて行くものへの、哀惜のようにも思えるものもある。
四に就いては一寸首を傾げる。もっと柔らかい言葉で表現していればうなずけるかも知れないが、ひいなあそびという子供の遊戯がそのように御大層なものに扱われるのには違和感を感じる。

というようなことで、先出の「慶安本源氏物語」に就いて述べる。
 まずこれが書かれたのは「慶安年間」江戸時代の初期(1648〜1651)である。書かれている絵をよく見ると、広い座敷、襖、御簾、奥の方に見える調度。すべて、源氏物語の舞台である平安宮廷とは似ても似つかないものである。これを描いた絵師は多分、平安時代の宮廷の有様など知識がなく、当時の武家の屋敷内を模し、物語に添って想像の雛祭、雛人形を描いたものではなかろうかと思われる。これを資料として取り上げ、源氏物語の世界の雛人形を表したものとするのは誤りとしか云えない。

源氏物語の絵としては室町期に描かれた絵巻は数あるらしいが、この絵巻の中に先述のように、一見して、時代様相が違うとわかるものもある。その造作物を資料として扱う為には時代相をよくよく勘案した想像力が必要だと思う。因みに、室町時代以降につくられたもので、古い時代に関するものは、その*4真贋(しんがん)*5玉石混交(ぎょくせきこんこう)といわれる。*図1慶安本源氏物語

専門家の間ではよく知られていることに、「*6遣唐使船」の絵巻がある。これは、造船関係の専門家によれば、室町時代当時の明の商船を描いたものだろうと云われている。その時代なら、明の商船は交易の為訪れているし、その姿を写したものがかの国に現存している。この船なら目でみて模写も出来る。然し、平安時代の遣唐使船は、文字の記録はあっても、実際の姿は後世の者が見ることは出来ない。船の歴史を研究する学問が出来てある程度の実体は解明出きるになった。ところがこの遣唐使船、現代になって、この絵をもとに実際に建造され、「遣唐使船」として様々な使いようがされている。

何故このような関係のないことを述べるかと言うと、雛人形、雛祭などの来歴が、時代によって歪曲され、又は目的あって我田引水の説をとなえ、それを文書で残し、後世の者を惑わすということもあるようだからだ。文献引用の際は、その精査が必要だが、これは素人の出来ることではない。

以上で「雛祭新考」からの、「ひいなあそび」に就いての摘出引用を終るが、この「ひなあそび」が何時の時代まで行われていたか、それを証するものは見当たらない。まして、この「ひいなあそび」が後世の「雛人形、雛祭」に転化した証跡もなく、「雛人形、雛祭り」を生むファクターとなったとする接点も、又見当たらない。

「ひいなあそび」はある時代、宮廷女児男児の間で習慣的に楽しまれていた遊戯として、それ以上の意味はなさそうである。

源氏物語の時代に、宮廷女児の遊びの習慣は後世まで受け継がれることなく、何時の間にかすたれ、何の脈絡もなく後世、雛人形が出現したと考える方が当を得ているような気がする。

つまり、「ひいな」と「雛人形」の接点は、「ひな」の呼び名だけであり、「ひいな」は幼女の遊び道具に過ぎなく、その遊びの日は不定であるのに替え「雛人形」の方は三月三日に飾る習俗として大人も子供も参集する祭りとして定着しているもので、両者の間には歴史の長い時間の断絶があり結びつけるのは困難と考えられるのである。

 
雛祭り起原考つづきを読む

【注釈】
*1 源氏物語-紫式部の著した、通常54帖よりなるとされ、おおむね100万文字に及ぶ長篇で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。
*2 紫の君-後に光源氏の妻となって紫の上と呼ばれた『源氏物語』のヒロインの初めの名前。架空の人物。
*3 とおにあまる-11から12くらいまで
*4 真贋(しんがん)-ほんものとにせもの。
*5 玉石混交(ぎょくせきこんこう)-良いものと悪いもの、優れたものと劣ったものが入り混じっていること
*6 遣唐使-倭国が唐に派遣した朝貢使のことをいう。中国では619年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。

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