六、 「雛祭」の起原とその変遷。
安土、桃山時代、雛人形が他の愛玩用人形とは違い、部屋の一隅に独特の空間を占めて飾られるようになったらしいことは、何となく明らかになった。しかし、その飾られるのは特定の日か、その日は一般的に一斉に飾ったのか、それを祭りと呼んだのは何時からか、これまた不明のままである。祭りという以上皆が一斉にと云う考え方もあるが、唯一軒の家の催しを祭りと称して賑やかに行う例は多々ある。雛祭りが、広く一般的に祭りと呼ぶ認識を共有するようになったのが何時ころのことか不明なのだ。
このことは、徳川家康が関東に領地を得て江戸の地に居城を定め、城下町の経営に乗り出して後更に幕府を開き、いわゆる江戸時代に入っても尚雛祭りの行方は不分明のままである。
天下の実権を握った幕府は武家の新たな制度、行事などを整備していったのだが、その一環の中で、「*1五節句」を定めその一つを「桃の節句」として祝い日に定め、雛祭の行事を城中で公式に行うこととした。当日武家一同は、*2熨斗目長袴(のしめながばかま)*図1の式服で登城して城中で「雛祭」の儀に参列して祝った。
と記録にあるようだが、残念ながらそれが徳川何代将軍の時かはっきりした記録がない。徳川家に就いては、多くは確かな古文書が現存することで、大抵のことは分るらしいのだが雛祭は分らない。
それはともかく、徳川幕府が、三月三日を祝い日として雛祭を行うと定め、
代々この行事を行って来たのは確かな事実のようである。
「雛人形」は、官の制度から生まれた習俗の影響もなく、全く民間の、思いつきが生み出した、それ自体に意味を持たせない造形物である。それから派生した飾り方の習俗を、徳川幕府が新しく制度を定め、それに組み込まれた行事の中に取り上げ、三月三日、桃の節句として雛祭を行うと制定した。
そこで、雛人形や雛祭の起原を、遠い古代の風習に故事来歴を求め、あやふやなこじつけを論う(あげつらう)よりも、[雛人形]が室町末期に生まれたと同様に、「雛祭」の起原を徳川幕府制定の時とするのが一番妥当な考え方と思われる。
民間では、三月三日に雛人形を飾る雛祭は、習俗として今日至っている。
ここで関連して思い浮かべるのがやたらと増えている国の祝日のことだ。その祝日の意義も国民に余り理解されず、一般的には特段の行事もなく、単なる休息日としてレジャーで過ごすものが多い。
そこで、明治政府によって祝日から除かれた三月三日をもう一度、端午の節句=子供の日と同様に雛祭りの祝日として公に復活させてはいかがであろう。雛祭を再認識でき、薄れいく日本の心をいくらかでも繋ぎ止める、よすがともなると思うのだが。三月三日雛祭を祝日に。と、これは雛祭行事の変遷を見てきた感想であるが、その変遷の最後を飾るものとして、祝日としての復活が実現すれば喜ばしいことだと思う。
ところで、幕府は三月三日を祝日と定め城中雛祭の祝いを行うようになったが、幕府としては一般社会の庶民までこの祝日を押し付けることは無かった。当時の町人社会では、三月三日又は四日は[出代わり]といって、雇い人の交代日だった。引き続き勤める者、新規の者と、人事の出入りの日でとても祝い日として休む暇はなかった。それから、三月十七日、十八日が「*3三社祭」の祝い日で雛祭りは何となく霞んでいたような感じである。とはいうものの、二月二十五日からは雛人形の市が立ちそれなりの需要はあったのではあるまいか。三月三日に内々で[雛祭り]を祝った家庭は少なかったのかも知れない。但し、その家庭が武家の家庭に限られていたのか、町人社会にもあったものか、要するに、家に飾った家庭の分布状況は分からない。(町人社会の行事は、江戸歳時記より)
江戸期の雛人形、雛祭の変遷に就いて、先出の風俗研究所長江馬務氏の「江戸時代風俗史」の中から引用してみよう。
―三月三日の項―
雛祭は江戸時代になっても始めは必ずしも三日とは定まっていなかったのが、*明暦(めいれき)頃から定まってきたらしい。
江戸初期には、雛に室町雛、*4寛永雛、*5元禄には冶郎左衛門雛(じろうざえもんびな)があり、室町雛は顔面積が広く、治郎左衛門雛は固くて*6有職衣紋(ゆうそくえもん)も正しい。立ち雛とて立ち姿もあるが、その他は正座している。
その祭法は雛壇もなく、ただ毛氈を敷き、雛の他に屏風、這子、犬張子、曲げ物に絵を描いた檜櫃(ひびつ)、行器(ぎょうき)、折敷(おりしき)、駕籠(かご)、給(きゅう)に甘酒を入れた銚子や膳を供える位のことで極めて簡単であった。
然るに*7享保(きょうほう)頃からは雛も享保雛といって、顔の細長い目の釣りあがった顔の金襴などで作った有職を無視した雛が出来て、段を二三段も構え、衣桁箪笥長持(いこう・たんす・ながもち)を加え、美男で名うての佐野川市松の似顔絵たる市松人形を置くなど、段々家庭趣味を加えた。
江戸後期になると、原舟月の古今雛とて束帯十二単の雛が出来たが壇も更に増加して五六段とし、雛の他に隋身、女房、五人囃子、三人上戸、桜橋などを加え、調子も台所道具、茶弁当、煙草盆、火鉢、化粧道具、玩具などの一切の嫁入り道具を網羅し夜は雪洞を点火して親戚友人を招いて饗することとなった。初期には雛使とて、雛を乗り物に乗せ、樽、行器等を釣台に載せ親戚から贈ることもあった。)
以上で、ざっとしたものだが、江戸時代の雛祭の変遷は凡そ察しられるだろう。これ風俗史(町人、一般の風習)としては面白いものでだが、武家、貴族の雛祭りはもっと格調高く優雅なものではなかっただろうかと思われる。然し、それを系統立ててまとめた資料はない。貴族武家の日記、あるいは物語などに散見できるかも知れないが、浅学の徒にはその知識がなく不明である。
これから後の、明治、大正、昭和と時代ごとに変化と盛衰はあったが、三月三日の雛祭の風習は連綿と続けられて今に受け継がれ、雛人形に娘の幸福を願う意をこめ、華やかな風物詩として愛好されている。