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楽しむ学ぶ「歴史」
雛祭り起原考
雛祭り起原考目次

はじめに

一、
天児と這子
「 まじないの対象物」


二、
ひいな「幼児の遊戯の
対象物」


三、
三月上巳の日と
「ひとがた」流し-
「呪術の対象」


四、
加太守雛
(かたもりびな)
「信仰の対象物」


五、
雛祭起原考
「雛人形」の発祥と
その推移


六、
「雛祭」の起原と
その変遷


結び
参考文献

 
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雛祭り起原考・要旨
 



ひな祭り文化普及協會 構 成  弥栄女
資料提供 菅原二郎

四、 加太守雛(かだもりびな)   
信仰の対象物


淡島神社これは古い時代から今に伝えられる肌守りとして信奉者の多い、和歌山県加太市*図1淡島神社(加太神社ともいわれる)の発行するお守りである。このお守りは、男女の幼児の姿が描かれている特異なものだ。「守り雛」の名はそこら出ている。幼い、可愛いの意味を持つ「雛」を名称としたのは、この一対の幼児の姿とお守り自体の大きさなどの形態から名づけられたものであろう。

淡島神社の古い伝えでは、*1神功皇后が参拝され、男女の幼児を描いたお札をつくらせ、女児を災厄から守り、その行く末の幸福を神に祈願された。その由来から*2淡島神社では小さなお守りをつくり、「加太守雛(かだもりびな)」として一般へ広めた。近畿地方一円から西国あたりまで、このお守りの信奉者は随分多かったらしい。勿論現代でも続いている。
ところで、このお守りを持った人の中には、何らかの理由でこれを処分しなければならなくなった場合が生じた。例えば、汚損して新しいお守りを頂くとか、娘が成長して不用のものと考えるようになったとか、理由はともかく、処分しなければならないが、他の塵芥同様に捨てるのには抵抗がある。神様のお札を粗末には出来ない。そこで帰結するのは川や海へ投ずることだ。川と海の流れを清浄なものと見るのは、太古以来、日本人に染み付いている心情である。

それが何時の間にか、川や海に流した加太守雛はどこで流しても必ず淡島神社へ流れ着くという俗信が生まれた。実際にも川や海辺に浮かべられた後、潮に乗って遠く流され、淡島神社傍の浜へ打ち上げられる加太守雛は少なくなかった。これは俗信とは別に、現実の地形と海流を考えればこの現象は至極自然なものだ。淡路島と和歌山県の間の、由良の瀬戸から紀伊水道へと流れる下げ潮が、瀬戸の中の友が島すぐ傍の淡島神社の浜へ漂流物を打ち上げるのは当然である。これを自然の物理的現象とみるか、神意とみるかは信心次第であろう。

この俗信と共に、[加太守雛]を川辺、海辺で流す風習は各地に広まった。

当初は恐らく個々人が密やかに、「加太守雛」を何かに乗せて水に浮かべ、両手を合わせて、それまで災厄から身を守ってくれた感謝の意を表しながら、流れに乗って去って行く守雛を見送っただろうと思われる。これは行事ではない。任意の素朴な行為である。
この「雛流し」の風習が、宮廷で行われた三月上巳の祓と「ひとがた」を海に流した儀式と関連を持つとは考え難い。あくまでお守り信仰から生まれ、人間感情からの自然発生としての行為である。そして、勿論のことだが、各地で行われた「流し雛」の習俗の源流とも云えないであろう。「雛を流す」という呼称は同じであっても、その習俗の生まれた地域によって、それぞれの故事来歴があり、それがすべて同じ起原に由来する訳ではないようだ。
『雛祭新考』に面白いものが掲載されている。鳥取市近傍に流し雛の風習があり、雛を流す理由として、「お雛さんが可哀相だ」と云う、とある。これを「雛祭新考」では、―汚穢を転嫁する雛は自己の身代わり―だから可哀相と解釈し、これも祓の観念をそのまま伝えているものと断じている。
だが、果たしてそうだろうか、お雛さんを飾り、それが一度きりの恒久的なものでなく、処分しなければならなくなっても、塵芥と共に打ち捨てるのは忍びない。それではお雛さんがあんまり可哀相。雛を飾るのが若い女性、あるいは女児ならそうした感情を持つのはごく自然と考える方が当を得ていると思う。人間の風習は、何時の場合も故事来歴あってのものとは限らない。人間感情が多くの共感を得た時もまた一つの風習を呼ぶ。

もう一度「加太守雛」へ戻ろう。
『雛祭新考』では「淡島神社の縁起」を、
―柳亭種彦(りゅうていたねひこ)が社司の求めに応じて起草したものだと云う―

と説明の冒頭から、作り話のいい加減なものだとして一々、付会の説としてしりぞけている。柳亭種彦は江戸時代の草紙類の作者である。
ここで『雛祭新考』は、大きな誤りを冒しているのではなかろうかという疑問を持たせる主張をしている。

  ―淡島信仰は室町末期か江戸初期―とし、その実証として―東京浅草寺内に鎮座する淡島明神社の創建は寛永十九年―であり、それ以前に東国に同社創建のことはないとして、淡島神社は新しいものであり、神功皇后の時代には存在していなかった。

ということだが、この著者には妙な偏見があるようだ。つまり、つまり、江戸にあるも
のが基準であり、江戸に伝わった時期から考えればその基であるものがそう古くから存在したものではない。と言うわけだ。江戸に伝わろうが伝わるまいが、そのものが古代から存在していたものはいくらでもある。
今一つの主張は「あわしま」と呼ぶ乞食の勧進だ。淡島信仰の伝播(でんぱ)によって力のあったのはこの「あわしま」で、この姿が出現したのは江戸期以前にはない。と、これも淡島神社が古代の創建ではないことの説明だとしている。

 これも妙な主張だ。例えば、江戸時代、お伊勢参りが盛んに行われ、庶民の家には「お伊勢さん」の御札が祭られた。これを捉えて、伊勢神宮の創建は江戸期をいくらも遡れないと言ったとしたら、誰が耳を傾けるだろう。

 「あわしま」という乞食勧進は、関西から西では、「あわしまさん」の呼び名でしられていて、昭和の時代まで各地を回っていた。「勧進」というのは、寺社が社屋、仏閣の修理、再建等のため、寄付を募って各地を回ることである。この「あわしま」に限らず、当初は寺社の為の寄付集めであっても、その目的を達して用済みとなった後、物売りだとか物乞いに成り果てる者もいた。寺や神社の名を出せば、簡単に銭が得られるとずるく考える者があっても不思議ではない。『雛祭新考』で「乞食の勧進」と見下げ果てた表現をしているのは、これを書いた昭和年代の「あわしま」の姿だろう。当初の「あわしま願人」として、「加太守雛」や護符を持ってあわしま信仰の普及に努めた者のあったことは、記録にないだけで、他寺社の幾多の例で想像出来ることだ。

あえて擁護する筆致になったのは、淡島神社の「加太守雛」が、普通のお守り札に、小さな男女の絵姿がついていて、雛の文字が付けられた特殊なもので、先述のように近畿圏から西の地方で、加太守雛を川や海に流すと、どこから流しても、淡島神社へ流れ着くという俗信が古くからあったとされ、これが「雛流し」の源流ではないかという思いがあるからだ。然し、それを証する確たるものは見出せないでいる。
「雛流し」の風習は全国各地にあったようだが、今ではそのほとんどが廃れているようだが、それの行われた由来のものが、伝説的に残っているようだ。然し、雛祭に結びつくものはなく、その地域ごとの由縁からのようだ。「雛祭新考」ではこれに就いて広く詳しく触れてあるが、「上巳の祓」に結びつくものも又ないようである。

 
雛祭り起原考つづきを読む

【注釈】
*1 神宮皇后-紫201年から269年まで夫の仲哀天皇を助けて政事を執り行なった。
*2 淡島神社-(加太淡島神社ともいう)
淡島神社ホームページより
―その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おほなむじのみこと)が祭られていて、皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。―
―男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の男女一対のご神像であるとされています。また、雛祭りが三月三日になったのは、友ヶ島から対岸の加太へのご遷宮が、仁徳天皇五年三月三日であったことから。雛祭りの語源も、スクナヒコナ祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われるようになったとされています。―

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