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楽しむ学ぶ「歴史」
雛祭り起原考
雛祭り起原考目次

はじめに

一、
天児と這子
「 まじないの対象物」


二、
ひいな「幼児の遊戯の
対象物」


三、
三月上巳の日と
「ひとがた」流し-
「呪術の対象」


四、
加太守雛
(かたもりびな)
「信仰の対象物」


五、
雛祭起原考
「雛人形」の発祥と
その推移


六、
「雛祭」の起原と
その変遷


結び
参考文献

 
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雛祭り起原考・要旨
 



ひな祭り文化普及協會 構 成  弥栄女
資料提供 菅原二郎

五、 「雛人形」の発祥とその推移

「人形(ひとがた)」ではなく、「人形(にんぎょう)」と呼ばれる、人の姿、形、まとわせた衣裳をリアルに写した形態を持つ造形物が、一般庶民の家庭に入り、遊びの対象としての愛玩物或いは鑑賞の対象としての愛好物として用いられたのは何時の頃か定かではない。平安、鎌倉の時代から、*1傀儡師(くぐつし)や寺社で布教の為用いられた操り人形はあったが、一般にひろく愛用された人形とは形態が違うものであった。これら操り人形とは違う普通一般に用いられた愛玩用の人形の出現時期は不明である。

 『雛祭新考』その他の研究書で、「*2お湯殿の上(おゆどののうえ)の日記」(文明十一年 1479年)、「*3言継卿記」(大永七年 1527年)を取り上げているが、現代で言う人形のような造形物であったか否かそれに触れるものはない。だがこの資料を基に、「雛人形」の出現は、室町中期までは遡れる(さかのぼれる)、としている。だが、この説は早計に過ぎるのではなかろうか。この資料の引用を読む限りでは、「ひひな」「ヒヒナ」の文字はあるが、その形状に就いては記されていない。「ひひな」に雛の文字を当て、後世の「雛人形」の初めとするのはやはりおかしい。資料精査と時代的傍証が必要なのではなかろうか。「雛人形」の出現とするには、室町末期のものと略、形態、扱われ方に相似するものがあるべきだと思う。

人形史の研究家によれば、*4室町時代末期には京都、宇治あたりで現代の人形と同じような愛玩物が相当作られていたようである。その人形は、作られた土地、作った職人の名を冠して名称としていた。例えば「宇治人形」「弥八人形」のように。

 それらの人形の中で、作った職人が「雛人形」と名づけた人形が現れた。それまでに「雛人形」の名称を持つものはなかったのではないかと思われる。それがどのようなものであったか不明だが、慣習的に、土地名、或いは作者名を名称としていた人形とは違い、「雛人形」と名づけたのは、恐らく他の人形に比べ一見して分る形態のものだったからではないだろうか。「雛」即ち、小さく愛らしい。その外観からの印象をそのまま呼び名としたのではなかろうか。その命名の由縁は不明としても、はっきり「雛人形」の名で世に出たのはこれが最初であるようだ。
 他に、これに代わるものが見出せない以上、これを「雛人形」の発祥と云って差し支えないのではなかろうか。
 当初、単体であったか又その形態も不明だが、やがてそれは男性を象ったもの、女性のそれと分化して「をびな」「めびな」の名称を持った。恐らくそれは、他の人形と同じように、それぞれが単体として作られ、その需要もあったらしい。

 それがやがて、「をびな」「めびな」を特徴的な組み合わせで一対としたものが作られるようになったには、文献資料もあるようだが、ともかく、室町末期の短い時代から安土、桃山の時代へと世が変わっていく。その間に当初の、「一対の雛人形」を素地として、男女の貴族の坐像を模した人形が作られた。「をびな」の衣裳は「衣冠束帯」、「めびな」のそれは「十二単」という、他の人形には見られない風格と豪華さを備えたものである。この男女一対の雛人形が、作成する前から意図された名称なのか、作成された後から時人が呼ぶようになったのか判然とはしないがこの雛人形は「お内裏(だいり)さま」と呼ばれ現在でもその呼び名は踏襲されている。

 この「お内裏さま」が生まれたのは、京都という土地柄と、安土、桃山文化の時代風潮を思う時、至極自然だったように思われる。因みに京都人にとって、皇室は尊崇の的であると同時に、日常的に身近なものとして親近感を持っている対象でもある。それで、天皇の住居を指す「内裏」から呼んだ「お内裏さま」は内々には「お内裏さん」と親しみをこめて呼んでいた。

 この内裏人形は、その姿、形が一般の人にとって非日常的なものである。「男雛」のしゃくを持つ衣冠束帯姿は高貴な威厳を備えた雰囲気を漂わせ、[女雛]の十二単に冠を頂き、檜扇を持った姿は絢爛として優美なものであった。これを手に入れた人は他の一般の人形のように、遊戯の道具や飾り物として愛玩の対象であるものとは同一視できるものではなかった。特異なものとして飾り方を考えただろうと思われる。そうした「内裏雛」には又、見る者殊に女子に、感嘆と同時に憧れの念を生じさせ、その背景にある貴族生活には及びはつかなくても、将来、せめてそれにあやかられるような暮らしが出来るようになりたいものだという、願望さえ抱かせるものがあった。
 同じ時代に、前項で触れた「加太守雛」が普及していた。[加太守雛]には小さな男女の絵姿がえがかれている。同じ飾るにも他の人形とは違う扱いをした[内裏雛]の傍らに、大切にしているこのお守りをそっと添えたくなるのは自然の人情であろうと思う。これより後のことだが、雛人形が雛壇を備えて飾られるようになって、貴族の中にはその家に古来伝えられてきた[あまがつ、ほうこ]を雛壇にそっと添えるようになり、それは現在も続いている例があるようだし、江戸時代、雑多なものが雛壇を賑わせた中にこれが見られるものもあった。「加太守雛」を添えたのも同じ心情であろう。

しかし、「あまがつ、ほうこ」は呪術、「加太守雛」は信仰、雛人形はそのどちらにも属さない。然し「あまがつ、ほうこ」「加太守雛」共に、幼い子供を災厄から守り行く末の幸せを招来するまじないがこめられている。[加太守雛]は神職を介在として神の加護がこめられているものと信じられている。雛人形にはそのような神性はない。

他の人形同様に単なる飾り物としての物体だが、[加太守雛]と並べたことで、その特異な優美さがあこがれを誘うと共に子女の将来の幸福を願う気持ちを託すものとなった。勿論この解釈は当初からこれを飾る人々が一様に持った気持ちではない。誰かがそう思い、次第にそれが広まりという自然発生的に、お雛さまは娘の将来の幸福を願って飾るものという意識が習慣として定着していったものであろう。そしてそれが、女児の誕生を祝って飾るもの、女子の結婚のさいには、嫁入り道具の中に入れるものというような習俗も生んだ。

 娘の健康と幸せを願って雛人形を飾るという習慣意識は現代においても、多くが人々の持っているもののように思える。

 
雛祭り起原考つづきを読む

【注釈】
*1 傀儡師-流浪の民や旅芸人。
*2 お湯殿の上(おゆどののうえ)の日記-宮中に仕える女官達によって書き継がれた当番日記。天皇の御所の中にある御湯殿の側に女官達の控えの間があり、そこに備え付けられていたといわれている。当番の女官によって交替で書かれたもので稀に天皇が代わりに書いたと思われる部分もあるとされている。 本来はいわば宮中の機密日誌(秘記)であり非公開のものであったが、後日の参考のために写本が作られる場合もあり、そのため正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文化9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。特に戦乱の激しかった戦国時代の記録が残されているという点で貴重な史料である。主に天皇の日常の動向が記述の中心であるが、宮廷行事や任官叙位、下賜進献などの宮中での出来事、皇族や女官の動向等、政治の表舞台には現れないような記事も見られる。『群書類従』に慶長3年(1598年)分が収録されて以来、宮廷史・政治史の根本史料として注目されるようになった。
*3 言継卿記(ときつぐきょうき)-戦国期の公家、山科言継の日記。1527年から1576年の50年に渡って書かれおり有職故実や芸能、戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料。
*4 室町時代-足利氏が京都室町に幕府を開き、政権を掌握していた時代。足利尊氏が建武式目を制定した1336年から、一五代義昭が織田信長に追放される1573年までをいう。その前期を南北朝時代(1336-1392)とよび、また1467年の応仁の乱以降を戦国時代とよぶことも多い。

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